第2回目-2

 前回に引き続いて、薬物依存症のご家族Hさんご夫妻のインタビューの2回目になります。

Hさん夫妻の物語と愛知家族会(全国薬物依存症者家族連合会愛知家族会)
~令和6年6月 西山クリニック精神保健福祉士による夫妻へのインタビュー 第2回~

<大自然に触れたら良くなるんじゃないか>

そんな状況を見かねたAさんは、次男が20歳の年の10月~11月頃、二人で旅行に行くことを提案した。北海道の「大自然に触れればよくなるんじゃないか」、「よい景色を見せたらよくなるんじゃないか」と思った。仕事はなんとか調整をして時間を無理やり作った。次男は了承してくれた。当時の次男は平衡感覚がなく、まともに歩くことさえ出来ない状態になっていた。北海道に行ってもしばらくは嘔吐し、寝ているだけで、物事に興味を持つことも出来ない状態だった。そのうち歩けるようになったが、目はうつろで上を見て歩いている状態だった。Aさんは北海道の冬は早く、雪も降り出したこともあり、二人で帰ることにした。(北海道に行ってみたものの何も変わることはなかった。)

次男は北海道から戻ると間もなく、シンナーを再開するようになった。中学校の先生などに相談し、精神科に相談することを教えてもらった。当時は、「ヤクザになっても良いからシンナーをやめてくれ」と思うくらいの心境だった。瀬戸市内の精神科の病院を受診。入院させてくれることになった(当日は親戚にも協力してもらい病院に行った。しかし、次男は大きく抵抗することはなかった)。その後は、3か月ごとに強制入院をさせ、隔離をさせることだけで精一杯だった。病気のこともまったく分からなかった。次男は入院先にはアルコール依存症の人たちもおり、看護師たちと話が出来ることが良かったように感じていた。AさんもBさんも「どこかあきらめていた気がする」と。

次男は3年半で、7~8回の入退院を繰り返していた。一時的にAさんの仕事を手伝わせたこともあったが、1~2時間程度しかやれなかった。

ある時、病院から入院を拒否されるようになった。次男が処方に文句を言うようになり、扱いが難しいというのが理由だったように思う。その為、通院だけの治療になった。ある時の通院の時に他の病院の先生?心理士?から「親も病気について勉強をした方が良い。ここではよくならない。親も変わらないとだめ。」と西山クリニックを紹介してもらった。

<西山クリニックへの通院>

次男が23歳から24歳頃だったと思う。さっそくAさん、Bさん、次男の3人で西山クリニックを受診した。西山先生から週1回、「依存症のレクチャー」と「薬物依存症の親のミーティング」に参加するように言われた。当時は薬物依存症の親のグループは20人くらいの家族がいたような気がする。(次男も他の薬物の患者がいたからか、受診を嫌がらなかった。)西山クリニックに行くと「他にもこんなに同じ家族がいるんだ」と思えた。しかし、「依存症」と理解するまでがとても大変だった。毎週3人で通院をした。Aさんは月に1回開催されていた「父親グループ」にも参加していたこともあった。Bさんが愚痴?を言っていたからか、ある時、西山先生の提案で「Aさんにもう少し関わってもらって力になってもらいなさい。」「本人にダメだと言う時は笑って言ってごらん。」など一つずつ教えてもらった。

その先生の提案(Aさんにもう少し関わって力になってもらいなさい)もあり、Bさんは元々気にしていた自分の親の面倒を見るために実家に戻ることを理由に家を離れる決断をした。それからAさんと次男の二人暮らしがはじまった。(Bさんは、次男との距離が近すぎて、精神的にも身体的にも離れることが出来ずにうつ状態になって、疲弊をしていたのかもしれない。または「つらくて逃げ出したい」という思いもあったと今は思う。)Aさんと次男の二人暮らしになってしばらくしてから、次男からBさんに電話があり「母さんだけ逃げるのか?」と言われたことがあった。その時に、「シンナーを自分勝手に好きでやっていると思っていたのに本人も苦しんでいたんだ」と思えた。食事などはBさんが作ったものをAさんが取りに行っていた。次男と物理的に距離が取れるようになったBさんは「正直、楽になれた。」、「自分の母親の面倒も看れて良かった。」と思えたそうだ。

<次男への決断>

瀬戸市内の精神科病院で安定剤と眠剤の処方があり、クリニックでも引き続き処方を受けていた。次男は治療のなかで、処方薬依存になっていった。次男は処方薬がないと不安定でだめになり、Aさんは「ふらふらし、朦朧としている状態」に酔っていたように感じた。全然良くならないと思い、Aさんも辛くなり「お前なんか知らない。死んでしまえ。」と言ってしまったこともあった。

Aさんは1年間の二人暮らしの生活にギブアップをし、Bさんに戻ってきてもらった。同じ頃、西山先生からひきこもりの寮を提案された。富山県の施設と蒲郡市にある施設を紹介され、見学に行き、蒲郡市のひきこもりの寮に入寮することになった。蒲郡市の施設から次男は一人で1年くらいクリニックに通院していた。しかし、入寮者にシンナーを勧めてしまうことがあり、寮にいることが難しくなったため、名古屋市中川区あたりで一人暮らしをさせることにした。仕事を探しながらの一人暮らしだったが、暮らしはめちゃくちゃになり、Aさんは援助も再開せざるを得なくなった。アパートはシンナー仲間のたまり場になっていた。その後、仲間と共に土建屋の寮に行った。しかし、1か月程度で実家に逃げ帰ってくることになるが、その前に、先生と事前に相談し、「帰ってきたらテントでの生活か、ダルクに行くかどちらか」と決断を迫ることにしていた。次男が実際に実家に戻ってくると決断を迫り、どうするか「自分で決めさせた」。(次男が20歳ごろにBさんの姉から新聞記事でダルクのことを聞いていた。西山先生にもっと早くダルクの事を教えてくれたらと思った時期もあった。しかし、「10年というプロセスが必要だった」と、今は分かる。茨木ダルクの岩井さんから「あんたのスタートは西山クリニックだからね」と言われた。)