今回は、西山クリニックに通院されていたご家族の方へのインタビューを掲載いたします。長い道のりを経て、薬物依存症を向き合ったご家族の話です。インタビューにご協力いただいたHさんご夫妻に、お礼申し上げます。
Hさん夫妻の物語と愛知家族会(全国薬物依存症者家族連合会愛知家族会)
~令和6年6月 西山クリニック精神保健福祉士による夫妻へのインタビュー 第1回~
(Hさん:夫をAさん、妻をBさんとする)
<はじめに>
Hさん夫妻はともに昭和24年生まれ。2子に恵まれ、年子であった次男の薬物問題に取り組んできた。
長男は次男と比べると勉強ができ、夢中になれるものがあるタイプの子どもだった。次男は勉強が得意ではなかった。しかし、友人とよく遊び、人との接触が好きで、体を動かすことも好きなタイプであった。
次男は中学で卓球部に入り、県大会に出場するほどの実力を持っていた。しかし、勉強は苦手で、塾や家庭教師をお願いしていた。中学の部活が終わった後に、友人や先輩の誘いでタバコやシンナーを吸うようになっていた。(両親が次男のタバコやシンナーを吸っているのをはっきりと知るようになったのは次男が17~18歳頃だった。)次男は中卒後、高校には推薦で進学したが、学校や友人になじめなかったのか欠席が多く、高校2年時に中退をすることになった。その間も、地元の友人とのつながりはあり、学校の後は遊んでいた。
次男は高校中退後、昼夜逆転の生活になってしまったので、何かさせようと、トヨタ自動車の下請けのゴムメーカーの寮に入り、仕事をするように促した(Aさんは高卒であったが、手に職があり自営で頑張ってきたので、仕事さえできれば何とかなると思っていたと)。しかし次男はそこでも馴染めなかったようで3か月程度でやめた。次男は実家に戻ると昼夜逆転の生活に逆戻り、シンナーも吸引していた。一応隠していたようだが、シンナーの入っていた袋があったこともあった。1970年代当時「シンナー遊び」が流行っており、一時的なものだと思っていた。
次男に「何かやらせたほうが、何かにのめりこんでくれたら、シンナーが止まるんじゃないか」とも思い、車の免許を取らせることにした。時間はかかりながらも免許を取得することは出来た。しかし、シンナーを吸った後に運転しているのか、擦ったりぶつけたりと度々事故を起こすようになった。また、車の中や自分の部屋でもシンナーを吸うようになり、AさんとBさんは部屋にシンナーがないか探して見つけては捨ててを繰り返していた。
次男は20歳頃、「シンナー仲間の女の子と同棲がしたい」と言う為、この女の子にかけてみようと了承した。はじめの2~3か月実家の部屋に住まわせていたが、二人の喧嘩が酷いのでアパートを借り生活をさせていた(その時は、その女の子とBさんが一緒に市場で働いていた。BさんはAさんの自営の仕事ではなく、外の仕事がしてみたかったと。アパートの費用はHさん夫妻が援助していた)。次男の彼女とBさんが市場の仕事に行っている間、次男は一人アパートでゴロゴロしていたらしい。
成人式には二人(次男とその彼女)の晴れの衣装もAさんとBさんが準備してあげた。一緒にシンナーを使っていた友人たちはみなシンナーをやめていた。そして、友人たちは次男にシンナーをやめることを説得してくれていた。しかし、シンナーをやめることはできす、次男は孤立するようになっていった。アパートの大家さんからは「出ていってほしい」と言われ、半年のアパート生活を終えることになった。そして、実家の生活に戻った。
Bさんは「シンナーさえなければ良い子、悪い子には到底思えない」と思っていた。実家に戻った次男は自室にこもる生活になっていった。Aさんは次男の様子を見て「いつも怒った顔だった」と当時を思い返す。Aさんは次男となるべく顔を合わせないように過ごしていた。次男は外に行くとしたらパチンコ店だったが、自室にこもっているよりは良いかとお金を渡していた(それでシンナーを買っているかもしれないと思いながらも)。一方で、外に出たら出たで心配で、Bさんの頭の中は常に次男の事で一杯になっていた。長男からは「甘やかしすぎだ」と言われたが、止めることは出来なかった。
第2回に続く