第3回目は、アルコール依存症ご本人で断酒会会員の清水さんの体験談になります。清水さんも、長く西山クリニックデイケアのミーティングの司会をお願いし、長いお付き合いになります。
≪第3回目ー前編 清水さん(アルコール依存症本人 断酒会会員)≫
【私が西山クリニック通った意味】
はじめに
昭和の時代も終わりの時期、私が酒の問題(食事も摂らず、ただひたすらに朝から酒を飲むだけの状態になっていた)で両親や妻、幼き子に心配をかけていた。どこかで情報を得たのか私の父親は、「俺は恥ずかしい思いをしながら、お前の話を聞いた。頼むから言うことを聞け」と、さかんに言われていました。説得に応じない私も、ついに三重県にある医療施設に入院することとなりました。しかし、「酒を切るため」の入院ではありません。「何とかして酒を手に入れる」その方法を入院中にも虎視眈眈と狙っていました。しかし、入院中になかなかうまく酒を飲むことが出来なくて、イライラ状態が続きました。ある時、ついに、酒をうまく入手することができましたが、当然に「アルコール依存症になっている私は」以前以上のひどい状態に戻っていきました。医療施設の処置は「強制退院」。退院した後の状況はもう最悪になっていきました。
地元(尾張)に戻り、近くの病院(内科)へ受診はするものの、改善されることなく、悪くなる一方です。その頃は身体的に最悪状態で歩くこともできませんから、車いすを家族に押してもらい、移動をしていました。ある時ついに地元の病院で「足の切断」を言い渡されました。両足を切断する日時も言い渡されていました。家族は深刻に悩み、保健所に相談し、勧められた心療内科に受診しました。心療内科の先生には「生命の問題を先に治療」と内科に行くことを勧められました。しかし私は内科への入院を断り、当然、精神科病院の入院も含めてすべて私は断りました。そうすると心療内科の先生から西山クリニックを紹介されました。アルコール治療は考えていない私は、「クリニックで適当にやっていけばいい」というくらいの考えでした。その後心療内科の先生は、紹介状を持って、この足で西山クリニックに行くようにと言われ、平成5年9月25日に西山クリニックへ行くことになりました。即座に診察していただいた後、西山先生から「毎日デイケアに通うように」と言われました。その当時のことは明確な記憶はありませんが、ただ自力で歩くことが困難でしたので「車いす」での通院です。
それから毎日、妻と長女が一緒に通院を助けてくれました。その時、年齢は五十過ぎの男、しばらく飲まない中、車いす通院が非常に恥ずかしく思うようになっていきます。「どうにか解放されないか」と真剣に考えました。かなり通院した後に、妻と娘に言いました。「もうこれから車いすでの通院はもうよいから」、「自分で西山クリニックに通院するから」と。今、思えば格好をつけただけで、すべて開放、自由になりたかっただけです。自由に飲める方法を考えた発言です。でも、結果としては、「いつの間にか飲まない形が身についていた」というのが真実でした。いろんな人の意見や忠告やアドバイスも「聴く」ということが、「身に付いてきた」というのが本当のところです。西山先生やワーカーの人たち、仲間の発言から学ばせてもらいました。しばらく経って西山先生から「この先は自助グループに繋がること」を勧められました。少し考えた後に応えました。「AAグループへ」との私の考えを伝えました。すると先生は即座に「あなたは断酒会へ」と言われ、結果は断酒会を紹介してもらいました。あの日から、三十数年経ちます。
今となっては現在も断酒会に通い、西山クリニックとのご縁は今も続いており、デイケアのオープンミーティング(デイケアOBや外来通院者が参加できる日)に定期的に呼んでもらい、司会をさせて貰っています。
すべては「行動」から始まる。
今の私があるのは西山クリニックと運よく出会ったおかげです。「絶対ラッキーですね。このラッキーは活かさなきゃ」、と「組織、断酒会」のイベントに出掛けています。「あの苦しかった時を忘れないために」、「新しい仲間との出会い」、「素晴らしき仲間との再会」。
会う仲間から「学ぶこと」、「心の底から嬉しさ、喜び」、いろいろなことを共有でき感じることなど、すべては「行動」から始まります。「行動がなければ出会いはない」、「人と出会わなければ、学習ならず」、「学びがなければ人生の嬉しい、喜びは得られない」と。お陰様の感謝の人生を生かされています。今は、一秒も戻せない。元に戻りない帰りのない中で生き続けます。我が人生は私自身のもの「私の問題」です。
ある高名な方の辞世の句や先人の言葉
死ぬことを忘れていてもみんな死に 明日死んでもいいように百まで生きていいように 花を花として花と見ず 世の中は食うて稼いで寝て起きて さてその後は死ぬるばかりぞ |
*第2回に続く